残暑の終わり、秋に気づく頃。
この時期の歩道には、目には見えない分子の帯がたなびいていて、虫を狙うクモの糸のように道行く人を捕えていく。
捕まっても食べられるわけではないけれど、鼻から侵入してきた匂い分子が言語中枢を甘ったるいオレンジ色に塗りつぶし、出てくる言葉はただ一つ。愛しいあの人の名前ではなく、この名前。
「キンモクセイ」
なんだそんなこと、ではない。一人静かに物思いに耽りながら歩いていたあなたの、せっかくのひらめきも深淵な思想も「キンモクセイ!」に変わってしまう。楽しくおしゃべりしていたのに、「あ、キンモクセイ・・・」とつぶやいた拍子に話の内容を忘れてしまう。悩ましい打ち明け話の最中だったらもう大変、「キンモクセイ」と返事してしまったせいで、しらけてしまうかもしれない。
もっと悲惨なのは「キンモクセイ」という言葉が出てこなかった場合で、思い出すまで脳みそがオレンジ色に染まったまま過ごすことになる。
それでも、さすがに忙しく働いている会社員ともなれば、そのうちに甘い呪縛も解けようものだが、帰り道でもう一度オレンジ色になる運命。
そんなキンモクセイの花言葉は「初恋」とな。
初恋といえば、あの人の名前を反芻するだけで一日を潰してしまう呪いのような陶酔、もしくは、甘酸っぱい思い出が同窓会で再燃して笑えない現実になったりする、言ってしまえば厄介な代物。
なるほど、キンモクセイの匂いも人を翻弄するからね。げに恐ろしきは初恋、もといキンモクセイ。
ところが不思議なことに、この恐ろしい匂いに捕まって、キンモクセイキンモクセイと唱えながら周りを見回しても、出どころがわからないことが実に多い。
帯状にたなびく甘い匂いはつかめそうなくらい強烈なのに、肝心の花が見つからない。
キンモクセイは普通に育っても高さ4m、下手すると18mくらいまで育ちかねない立派な木であるし、隙間なく茂った濃い緑の葉を背景に、ビーズのようにごく小さいとはいえ鮮やかな橙色の花がみっちりと寄り集まって咲いているのだから、見落としにくいはずなのだけど、やっぱり見つからない。
香りに捕まるより先に、咲いているキンモクセイを偶然見つけることも、もちろんある。そんなときは期待で鼻をひくつかせつつ、覚悟を決めて近づくわけだが、
あれ?香りは?もしかして鼻づまり?あーそもそもキンモクセイってそこまで匂いしないか?そうだっけ?
と、微かながっかり感すら味わいながら通りすぎることになる。
まるで、お互いちょっと気になってるあの人とすれ違うときみたい。交わりそうになる視線をあえて外してドキドキしているのに、うっかりぶつかったらどうしようとすれ違う側の半身が熱を持っているのに・・・、相手はこっちのことなど眼中になしな態度で、演技にしてはあまりに自然な態度で、何気も何事も当然ぶつかることもなくすれ違い、あれ?脈ありって勘違いだった?赤っ恥やん!カッコわる・・・と言うアレ。(皆さまもありますよね?)
べ、別にキンモクセイの匂いなんかどうでもいいんだけどね!
でもね(まだ続くのか)
もうしっかりすれ違い終わってから、見つかっても別の理由を言えるくらい離れてから、何気ないふりして振り返ったら、むこうもこっち見てて目があったりして!ドギマギ!
キンモクセイの匂いも、そんなやつ。
なんだー香りしないなーと諦めた頃に匂ってくる。そして頭ん中、オレンジ色。気分は、急にご機嫌。
いやはや、げに恐ろしき・・・
キンモクセイに限らず、香りというやつは抗いがたい。視覚以上に体に響くというか、手応えがある。
だってほら、「絵に描いた餅」は役に立たないものという意味だし、うなぎの蒲焼の匂いで飯は食えるが、写真だと惨めな感じ。可視光線と違って匂い分子には質量があるので、もしかすると匂いを嗅ぐときには鼻から喰っているのかもしれない。
そういえば、映画「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」では、盲目の退役軍人(偏屈クソジジイだけど時々紳士)が、女の使っている香水や石鹸の匂いから彼女の姿を描き出す描写があり、視覚に頼った表現よりも生々しく艶めかしい響く。これも匂いに手応えがあるからこそかもしれない。
「パフューム ある人殺しの物語」の主人公は、香りに敏感すぎて、女は抱くより嗅ぐほうがいいって人。彼の作った究極の香水は、愛さずにはいられないどころか溺れずにはいられない香りで世界を根底からひっくり返す。色欲も食欲も、全ての欲望は匂いのせいだ。愛も正義も信仰も匂いで決まる。全てを支配しているのは匂いだ!さあ嗅げ!!オレを嗅げ!!!もちろん人を夢中にさせる絵画や音楽というのもあるのだけれど、選ばれし者の崇高な狂気って感じがして、「パフューム ある人殺しの物語」に描かれるグロさは香りだからこそという気がする。
そのうえ、「失われた時を求めて」の紅茶に浸したマドレーヌのおかげで有名かもしれないが、匂いは記憶に結びつきやすいらしい。
自伝「ぼくの哲学」によると、現代美術家アンディ・ウォーホルは、大量の持ち物を全て写真に撮ってから倉庫に保管するような記録マニアだったので、身にまとう香水を3ヵ月ごとに変え、瓶に残った香水は使用期間をラベリングして保管していた。匂いを嗅げばその頃のことをはっきりと思い出せるから。
人生を狂わせる媚薬にして、記憶のしおりにもなる。匂いとは、げにげに恐ろしきものなのである。
とはいえ、キンモクセイに気持ちを弄ばれる期間は短い。しばしの間、存分に弄ばれたい。
この話にでてきた映画
自然体で踊るタンゴの上品と余裕さよ。タンゴを踊るシーンは何度も観たくなります。
想像していたより、はるかにグロくてエロくて、とんでもない展開でした。びっくりした。
そして、初めて香水を買いました。
この話にでてきた本
休み休み読んでおり、まだ途中です。鈴木道彦翻訳版で読んでいますが、読みやすい日本語で、挿絵も綺麗なのがいいです。
これを全部読んだ人とクローンウォーズを全部観た人は、粘り強い性格だと自負していいと思います。
自分や知り合いの妙なこだわりや、時代の雰囲気について、つらつらフワフワと書かれたエッセイ。
芯がなさそうでいて、内面分析や意味付けなんかしないという姿勢が一貫しているあたりにウォーホルぽさを感じます。「ぼくはヒナヒナなの。つまりママちゃん坊やってこと」との一節で夢中になってしまった。